白龍亭・八犬士生誕地(八玉の飛散)

■ 目次 >> 地図(補図) >> 八犬士生誕地(1997年~2012年/2025年 3月改訂再開)


▼八犬士生誕地


* この地図は、2012年にサイトデザインを大幅変更した時に一旦公開中止。それから 13年経過後の 2025年に、元の地図をベースに四つの山と玉の飛行経路を追加。さらに本文も改訂して再開。
* この地図には PCでの拡大機能や、スマホでの縮小機能なし。


【八玉の飛散】
 安房の富山にて伏姫が自害した時、彼女が所持していた数珠の中の八つの大玉が、八方に飛び散った。

「護身刀(まもりがたな)を引拔(ひきぬき)て、腹(はら)へぐさと突立(つきたて)て、眞(ま)一文字(もんじ)に掻切(かききり)給へば、あやしむべし瘡口(きずぐち)より、一朶(だ)の白氣(はくき)閃(ひらめ)き出(いで)、襟(えり)に掛(かけ)させ給ひたる、彼(かの)水晶(すいせう)の珠數(ずゝ)をつゝみて、虛空(なかそら)に升(のぼ)ると見えし、珠數(ずゝ)は忽地(たちまち)弗(ふつ)と斷離(ちぎ)れて、その一百(いつぴやく)は連(つら)ねしまゝに、地上(ちぜう)へ戞(からり)と落(おち)とゞまり、空(そら)に遺(のこ)れる八(やつ)の珠(たま)は、粲然(さんぜん)として光明(ひかり)をはなち、飛遶(とびめぐ)り入紊(いりみだ)れて、赫奕(かくやく)たる光景(ありさま)は、流(なが)るゝ星(ほし)に異(こと)ならず。主從(しゆうじゆう)は今(いま)さらに、姫(ひめ)の自殺(じさつ)を禁(とゞ)めあへず、われにもあらで蒼天(あをぞら)を、うち仰(あほ)ぎつゝ目(め)を黑白(あや)に、「あれよあれよ」と見る程(ほど)に、颯(さ)と音(おと)し來(く)る山(やま)おろしの風(かぜ)のまにまに八(やつ)の靈光(ひかり)は、八方(はつほう)に散失(ちりうせ)て、跡(あと)は東(ひがし)の山(やま)の端(は)に、夕月(ゆふつき)のみぞさし昇(のぼ)る。當是(まさにこれ) 數年(すねん)の後(のち)、八犬士出現(けんししゆつげん)して、遂(つひ)に里見(さとみ)の家(いへ)に集合(つどふ)、萌芽(きざし)をこゝにひらくなるべし」 (第二輯 第十三囘)
 上記の引用の後、伏姫は飛び去る玉を見届けて死ぬ。
 原文には「八方」と記されているが、飛翔した玉の着地点である八犬士の生誕地を見る限り、360度の内、ほぼ西半分にしか飛んでいない。
* 富山を通る南北直線より東側に親兵衛と小文吾の玉が飛んではいるが、大雑把に言えば真北に飛んだようなものであり、東側に飛んだ玉が無いと言ってもほぼ間違いはない。

玉 八玉の飛行(富山→犬士生誕地)
着地点 方位角 水平飛行距離
仁 下總國・市川 約 5度↑真北を向いて、右に 5度 約 68km
義 伊豆國・北條 約 265度←真西を向いて、左に 5度 約 85km
禮 下野國・赤岩 約 345度↑真北を向いて、左に 15度 約 180km
智 相模國・犬坂 約 290度←真西を向いて、右に 20度 約 80km
忠 武藏國・煉馬 343度↑真北を向いて、左に 17度 75km
信 安房國・洲崎 約 200度↓真南を向いて、右に 20度 16~19km
孝 武藏國・市川 約 350度↑真北を向いて、左に 10度 約 70km
悌 下總國・行徳 約 5度↑真北を向いて、右に 5度 約 65km

* 犬山道節だけ「約」が付いていないのは、豊島一族の煉馬城の位置が明確だから。

 八人中、南方に生まれた三人は育った場所が違う。
 安房国に生まれた犬飼現八は、下総国許我で育つ。伊豆国に生まれた犬川荘助は、武蔵国大塚で育つ。また相模国足柄郡犬坂で生まれた毛野は、女田楽の芸人一座に加わるので育った場所は不定ながら、本拠地は同国鎌倉らしい。当時鎌倉は関東最大の都市なので、毛野が一番の都会ッ子になる。
* 犬江親兵衛は登場するまでは生まれた場所で育っているが、登場時点ではまだ幼い。後に安房国富山で伏姫神女に育てられる。親兵衛も加えれば、生まれた場所と育った場所が違う犬士は四人となる。

【行先は生誕地以外?】
 瑞玉の飛んだ行先を、単純に犬士生誕地だとしてみたが、よくよく考えてみれば、生誕地と玉の出現地が異なる場合があった。
 ということで、出現地バージョンの表も追加。
* このページを書いた後、玉が出現地に飛んだのではなさそうだと考察した。よって、この章は話半分で読まれたし。詳細は「神女の玉配り」参照。

玉 八玉の飛行(富山→瑞玉出現地?)
着地点 方位角 水平飛行距離
仁 下總國・行徳 約 5度↑真北を向いて、右に 5度 約 65km
禮 加賀國・白山? 約 297度←真西を向いて、右に 27度 約 320km

 仁玉は、古那屋文吾兵衛が川で漁をした時の網に引っかかったものを、親兵衛の母=沼藺が二歳の頃に飲み込んだ。
小文吾「この入江河(いりえかは)の水中(すいちう)に、夜(よ)な夜(よ)な光明(ひかり)を放(はな)つことありけり。人(ひと)みな怪(あやし)み思へども、怕(おそ)れて水底(みなそこ)を撈(さぐ)るものなし。わが父(ちゝ)文吾兵衞(ぶんごべゑ)は、年來(としごろ)漁猟(すなどり)を嗜(たしむ)により、一夕(あるよ)網(あみ)を携(たづさへ)て、入江河原(いりえかはら)に赴(おもむ)きつゝ、件(くだり)の光明(ひかり)を心(こゝろ)あてに、しばしば網(あみ)をおろすものから、物(もの)一ッだに罹(かゝ)らねば、其處(そこ)に望(のぞみ)を失(うしな)ふて、その曉(あけ)がたに宿所(しゆくしよ)にかへりつ。次(つぐ)の日(ひ)網(あみ)を乾(ほ)さんとて、引揚(ひきあげ)て檐(のき)へ掛(かく)るとき、網(あみ)の中(うち)にものありて、漏落(もりおつ)るとおぼしくて、錚々(さらさら)と音(おと)しにけり。この年(とし)沼藺(ぬい)は二才(ふたつ)なり。親(おや)の網(あみ)を乾(ほ)すを見て、そのほとりに這(はひ)よりつゝ、彼落(かのおち)たりとおぼしき物(もの)を、撮(つまみ)て口(くち)に入(い)れしかば…」 (第四輯 第三十七囘)
 ということで沼藺が育った行徳が出現地になる。もっとも、親兵衛の生誕地=市川とは隣村なので、大した違いはないとも言える。
* 今は行徳も市川市の一部である。
* それにしても「水中に光るものがある」って怪獣が出るパターン。こんな不気味な川で漁をする文吾兵衛っていったい…

 次は禮(礼)玉。
 角太郎の母=正香が、旅の商人に頼んで加賀の白山権現社頭の粒石を取り寄せたら瑞玉だった。
角太郎「某(それがし)が實母(うみのはゝ)は、諱(いみな)を正香(まさか)と呼(よば)れたり。その性(さが)怜悧(れいり)にして、且(かつ)神佛(しんぶつ)を信(しん)ずること、大(おほ)かたの婦女子(ふぢよし)に過(すぎ)たり。かくて某(それがし)を産(うみ)たる比(ころ)、加賀(かが)なる白山權現(しらやまごんげん)の社頭(しやとう)の、粒石(こいし)を乞(こひ)まうして、その兒(こ)の護身嚢(まもりぶくろ)に納置(いれおく)ときは、疱瘡(もがさ)も麻疹(はしか)も究(きは)めて輕(かろ)し、とある人(ひと)のいへるを聞(きゝ)て、北國(ほつこく)へゆく商旅(たびあきびと)に、云云(しかしか)と憑聞(たのみきこ)えて、件(くだん)の粒石(こいし)を取(とり)よせしに、その人(ひと)のもて來(き)つるを見れば、石(いし)にはあらでこれ玉(たま)なり」 (第六輯 第六十一囘)
 白山権現(はくさんごんげん)の末社なら、赤岩の近くを流れる渡良瀬川の下流(下野国梁田郡、現在の足利市)にある。
 だが、正香が求めた小石は、加賀国の本宮。かなり遠距離であるにもかかわらず、旅商人に頼んでまで取り寄せるのだから、けっこうな本物嗜好の母親である。
* 欧州の有名ブランドのバッグを、東京の店舗ではなく、パリの本店で買いたいタイプか?

 問題は、その小石がどこで玉と入れ替わったかだ。
 ①旅商人が赤岩に帰ってきて荷物を開ける直前か、②旅の途中か、③あるいは最初から白山権現にあった玉が小石に偽装していたか。
 これの答えが書かれていないので、礼玉に関しては、いったいどこに飛んだのか、不明である。確実に言えることは、他のどの玉より遠くまで飛んだ、ということだ。それも、飛びぬけて遠いのである。
* ③だった場合、礼玉には白山権現のパワーが加わっているかもしれない。

 もうひとつ気になったのが、智玉。
 毛野は懐胎三年を経て生まれたので、玉が懐胎した時の場所に飛んでいたら、犬坂ではないことになる。調べ直した結論から言えば、犬坂に飛んだので間違いはなかったが、どの段階で玉が出現するかが犬士によって異なるので、少々ややこしい。
毛野「母(はゝ)は相模(さがみ)の足柄(あしがら)なる、犬阪村(いぬさかむら)に在(あ)りし時(とき)、點燭時候(ひともしごろ)に外(と)に出(いで)しに、忽然(こつねん)として流星(ながれぼし)に、似(に)たる一隻(ひとつ)の光物(ひかりもの)、南(みなみ)の方(かた)より晃(きら)めき渡(わた)りて、墜(おつ)ると思へば俺(わが)母(はゝ)の、懐(ふところ)にぞ入(い)りにける」 (第八輯上帙 第八十二囘)
 足柄から見れば安房は東だから、南の方から飛んできたというのが気になるところではある。
* ちなみに、足柄の南は、伊豆半島である。

【余談:伏姫の見た景色】
 フライトシミュレータで房総半島上空を飛んで、伏姫終焉の地=富山を見てみた。
 そこで初めて、富山が南北と東は山に囲まれ、西側にしか開けてないことに気づいた。しかも、その西方向に富士山が見える。伏姫と八房が暮らしたのは深山幽谷のイメージがあったが、西側に関してのみ、開放的な風景を見ていたのかもしれない。

* 上の風景は「マイクロソフト・フライトシミュレーター2024」のスクショ。①フライトプランどおり正しく飛ぶとか、②悪天候で飛ぶとか、③着陸するとかを避ければ、ド素人でも観光飛行はできる。

 八玉は東半分には飛ばず、西半分にのみ飛んだ。
 となると、馬琴は富山が西側にしか開けていないことを知っていたのか? 関東の地理勘がある人間であれば、たとえ不正確な絵地図であったとしても、富山が半島の相模湾側の山だと分かれば、そういう認識に至るであろう。
* そこに思い至らなかった亭主はボンクラということだ。
* 房総半島の八犬伝地図を描いたにもかかわらず、どちら側が開けていて景色はどう見えるか等々に意識が向いていなかったわけだ。自己嫌悪である。

 仮に馬琴がそういう地理的な要素を強く意識していたとすれば──
 玉が飛んだ方向にも何らかの意味があるのかもしれない。
 そういう視点で見ると、気になるのは「仁」と「智」だ。この玉は、江戸人にとって重要な二つの山=筑波山と富士山の方向に飛んでいる。親兵衞と毛野は特別な犬士だからこそ、これが気になる。
* 特別な犬士については「闇の犬士・毛野」参照。
 ──たぶん、考えすぎだろうけど。
* この続きの妄想は「霊山の引力」参照。


□ 関連 → 八犬士比較データ表
■ 目次 >> 地図(補図) >> 八犬士生誕地
<< 前頁に戻る