[ 八犬伝邪読 - 24 ]

● 犬川衛二則任
　義の玉を持つ犬士、犬川荘助の父親。
　犬士の親なので、当然善人ではあるのだが……なんか違和感がある。

額藏「寛正（くわんせう）二年に京都（きやうと）より、前將軍普廣院（ぜんせうぐんふくわういん）（義教公（よしのりこう））の第四男（だいよなん）、政知（まさとも）とまうせしを、右兵衞督（うひゃうゑのかみ）に拜任（はいにん）せられて、伊豆（いづ）の北條（ほふでふ）へ下（くだ）させ給ひ、堀越（ほりこし）の御所（ごしよ）と唱（となへ）て、諸國（しよこく）の賞罰（せうばつ）を掌（つかさどら）せらる。政知朝臣（まさともあそん）武威（ぶゐ）に募（つのり）て、民（たみ）を憐（あはれ）むのこゝろ薄（うす）く、驕奢（おごり）を極（きわ）め給ふ程（ほど）に、不時（ふじ）の課役（くわやく）いと多（おほ）かり。わが父（ちゝ）莊官（せうくわん）たるをもて、舊例（きうれい）を援（ひき）て、苛政（かせい）を諫（いさ）め、しばしば宥免（ゆうめん）を乞（こ）ひしかば、讒者（ざんしや）の爲（ため）に彈（はじ）かれて、御所（ごしよ）のおん怒（いか）り酷（はなはだ）しく、誅（ちう）せらるべし、と聞（きこ）えしかば、父（ちゝ）はますますうち歎（なげ）きて、一通（つう）の書（しよ）を遺（のこ）しつゝ、母（はゝ）にもしらさで自殺（じさつ）せり。時（とき）に寛正（くわんせう）六年秋（ねんのあき）九月十一日、吾儕（わなみ）は僅（はづか）に七歳（さい）なり。莊園家財（せうゑんかざい）は沒官（もつくわん）せられ、從類奴婢（じゆうるいぬひ）は東西（とうざい）に離散（りさん）して、身（み）に隨（したが）ふものなし。さしも豪家（ごうか）といはれたる犬川（いぬかは）の水涸果（みづかれはて）て、妻子（さいし）を追放（ついほう）せられしかば、母（はゝ）は泣（なき）つゝ吾儕（わなみ）が手（て）を掖（ひき）て…」 （第二輯第二十囘）

稻戸津衞「俺（わ）が本貫（ほんごく）も亦（また）伊豆（いづ）にて、親（おや）は則（すなはち）堀越殿（ほりこしどの）（足利政知（あしかゞまさとも））に、仕（つか）へたるものなりければ、犬川生（いぬかはうじ）の先君子（せんくんし）、とその交（まじは）り疎（うと）からず。某（それがし）弱冠（じやくくわん）なりし比（ころ）より、衞二大人（ゑじうし）に從（したが）ひて、文學（ぶんがく）を受（うけ）武藝（ぶげい）を做（なら）ひし、師弟（してい）の恩義（おんぎ）も亦（また）深（ふか）かり。加以（それのみならず）某（それがし）が、年（とし）十七八なりし比（ころ）、繼母（けいぼ）の讒（さかしら）により父（ちゝ）に逐（おは）れて、親族許（しんぞくがり）寓居（ぐうきよ）せし事あり。その折（をり）に衞二（ゑじ）大人（うし）の、父（ちゝ）を諫（いさ）め母（はゝ）を和諭（なだめ）て、召返（よびかへ）させ給ひにき。恁（かゝ）る德誼（とくぎ）の君子（くんし）なりしに、惜（をし）むべし暴君（ばうくん）の、非法（ひほう）にその身（み）を措難（おきかね）て、竟（つひ）に刃（やいば）に伏（ふし）給ひたる」 （第八輯上帙 第七十九囘）

● よくあるパターン？
　いったい、犬川衛二とはどういう人物なのか？

　パターン①：外面は良くて、内面は悪い偽善者。
　本当は家族を含めて誰に対しても冷淡なのだが、善人に思われたくて、外面だけは良い。今でもけっこういるよね。
　ただ、このパターンの場合、命をかけてまで善人であろうとはしないであろうし、そもそも犬士の父親が偽善者というのは、八犬伝世界ではありえない。つまり、偽善ではなく本当の善人だ。であるにもかかわらず、妻子に対する思いがかくまで薄いのは何故？

　パターン②：家族を自分の所有物だと思っている男。
　家族は外部の他者ではなく、自分の物として、自分と同一化してしまう。これまた、今でもけっこういるよね。
　このパターンで最悪なのが無理心中。自分の死に家族を道連れにする。それと比較すれば、衞二は、ひとりで死んでいる分だけまともだとも言える。それでも、亭主は犬川衛二はこのパターンではないかと思う。
　民＝他者を大切に思う心の中に家族が含まれないのは、家族が他者でない＝自分の物ということであろう。自己を犠牲にしてでも民を救おうとする彼にとって、家族も自己のうち。犠牲もやむをえない、ということになる。だからこそ、自分の死後に家族が路頭に迷うことに、なんの躊躇もない。

　善人かもしれないが、ずいぶんと自分勝手なことよ。
* ミデヤン族長の娘を妻にしておきながら家族を放ったらかしにしたモーゼとか、王族の地位を捨てるついでに妻子も捨てたお釈迦様とか、善なる偉人にして家族を冷遇する例はけっこう定番だったりするよなぁ。なんで？

● 余談：真逆の悪人
　ジョゼフ・フーシェ（Joseph Fouché）── フランス革命とそれ以後の恐怖政治と混乱期、さらにナポレオン帝政から王政復古まで、次々と権力者が入れ替わる中、裏切りと変節を繰り返しつつ、常に権力の中枢に居続けた男。最後は、国王の処刑に関与した過去ゆえに、王政復古後に失脚して国を追われはした。それでも、暗殺されることも処刑されることもなく、生を全うした。

* シュテファン・ツヴァイクによる評伝「ジョゼフ・フーシェ ─ ある政治的人間の肖像」

　この男は同時に、良き夫であり家庭を大切にした。

　家族にとって、この「どんな手を使ってでも生き延びる」というのは、むしろ「善」かもしれない。
　この一点において、犬川衛二は「悪」だとも言える。

● 戦略の欠如
　犬川衛二に話を戻す。

　彼の「主君の苛政に諫言」というのは、確かに民を思ってのことであろう。
　だが結果はどうだ？
　足利政知の苛政が改まらないばかりか、ブレーキ役としての彼が死んでしまったことで、政知がやりたい放題できる環境を作ってしまった。言い方はきついが、民にとって何の役にも立たなかった、ということだ。

　そもそも「舊例を援て、苛政を諫め」っていう、旧例を持ち出す説教臭い態度が、反感を買った可能性が高い。そうなると逆効果で、政知側からすれば「だったら、もっと苛政にしてやるよ」という気分になりかねない。
* 現代でもあるよね。ちょっとした校則破りに対して、くどくどと過剰に説教した結果、「だったら、めちゃくちゃ校則破ってやるぜ」と、さらに悪い方へ追いやってしまうパターン。説教系の人って、わりと「反感」や「逆効果」に対して無頓着だと思う。もしかしたら説教したいだけで、その結果がどうなるかには興味ないのかもしれない。

　足利政知を善政に導くのは至難だろう。
　だからと言って、諫言をぶつけて反撃くらって自害っていうのはどうなの？　正面攻撃が利かないと分かった時点で、ふつうは別の戦略を考えるよね。重要なのは「結果」であって、「過程」ではないのだから。
　しかし、犬川衛二には「結果を出す」ための戦略（知恵や工夫）がない。

　結果を出さねば、民は救われない。
　そのことを余り分かっていない時点で、彼は、家族だけでなく、民のことも本当は見えてなかったように思う。
* こういう人物が父親だったことが、犬川荘助の不幸の原点でもあろう。