[ 八犬伝邪読 - 23 ]
● 長尾景春の母
八犬伝をよく知る人は、ハトシェプストというタイトルを見てすぐに「箙大刀自のことだな」と分かってしまうはず。
古代エジプトのハトシェプストは、ファラオであったトトメス２世の妻。夫の死後、後継者たるトトメス３世（夫が別の女性に産ませた子）が幼少であることによって、22年間ファラオに代わってエジプトの支配者として君臨した。
一方の箙大刀自。長尾家の当主である息子の景春がありながら、越後国片貝にいて、君主として振舞っている。
どちらも、男が支配者である時代において、前君主の妻であり現君主の母親という立場を利用して、女でありながら領土を支配していることが共通している。違うのは、ハトシェプストが息子が持つべき実権をすべて奪っているのに対し、箙大刀自は越後片貝周辺しか支配していなさそうなこと。
* 箙大刀自の権力がどの範囲に及ぶのか明確ではない。ただ、八犬伝を読む限り、越後の春日山や、上野国あたりが景春の勢力下にあるので、片貝周辺だけだろうと推測できるのだ。
● 息子と娘の分断
八犬伝独自の架空人物の箙大刀自と、実在人物としての景春の母には共通点がある。
三人の娘＝景春の姉妹だ。
それぞれ、扇谷定正の正室（八犬伝では蟹目前）、大石憲儀の正室（八犬伝では大塚殿）、千葉介自胤の正室（八犬伝では船場殿）である。
* 史実ではもうひとり、豊島泰経の正室になった娘がいる。
* 八犬伝における扇谷定正の正室＝蟹目前は、第八十八回では「白井殿（長尾景春）の叔母上なり」だったのが、後の第百十五回では「わが亡女（なきむすめ）」と系図が史実どおりに変わっている。
これが史実だというのが驚き。
八犬伝にも出てくる三人の娘の嫁ぎ先は、上杉家か、上杉方の諸将である。
であるにも関わらず、長尾景春は上杉家に反旗を翻した。それに同調した豊島一族は上杉方に滅ぼされ、豊島一族の犬山道節が扇谷定正を仇として狙うことにつながる。
「（豐嶋）信盛兄弟、その初は、兩管領に從ひしに、聊怨るよしありて、遂に胡越の思ひをなせり。尒るにこの比、管領山内家の老臣、長尾判官平景春、越後上野兩國を伐靡て、旣に自立の志あり。よりて豐嶋を相譚ふに、信盛立地に一味同意して、いよいよ管領に從はず…」 （第三輯第廿二囘）姉妹の嫁ぎ先と敵対関係になるのだから、景春にとって、上杉家にはよほど腹に据えかねる事があったのだろう。
扇谷定正「我と顯定兩大將にて、從ふ諸侯勇士を率て、里見を一擧に討滅し、憎しと思ふ惡犬士を、一個も漏さず生拘りて、八〓に做すならば、豈快らずや（中略）越後片貝の箙大刀自は、女流なれども義勇あり。且故夫人蟹目前の母なるに、この義を告ずは恨みられん。片貝並に白井へは、箕田馭蘭二を遣さん」 （第九輯下帙之下乙號上套 第百五十二囘）母と息子の関係について、もう少し深掘りしてみたい。
* 〓は「曾+刂」、「劊」に似て非なる漢字。
● 稲戸津衛と長尾景春の軍事行動
この件は、時系列を逆に見てゆく。
「莊介遙に是を見て、是必五十子より、來ぬる先鋒の一將ならん、と思ひつゝ馬を找めて、近づく隨にその旗を瞻仰るに、一雙矢筈の花號ある下に、北越片貝一大女丈夫、箙大刀自代軍、稻戸津衞由充といふ、二十一字を大署したれば…」 （第九輯下帙下編上 第百六十二囘）里見対関東管領戦において、稲戸津衛が率いる箙大刀自代軍がいるのは行徳口の戦場。
「この地へ寄隊の摠大將、上杉五郎丸朝良の後見たる大石石見守憲重の陣へ、遣して告るやう、「由充近年多病なるに、この曉の、風寒に冒されし故か、猛可に持病の疝積發りて、騎馬の掙き做りがたかり。姑且後陣に退きて、將息をせまく欲す。先鋒を免除し給ひね。」と辭ふて、軈て隊兵を、故のごこく從へて、兩國河の方に退りけり」 （第九輯下帙下編上 第百六十二囘）つまり、稲戸津衛率いる箙大刀自代軍は、一応上杉軍の指揮下にあり、共にこの戦場にやってきた。
「言には出さで、肚裏に思ふやう、扇谷は、淺智の將なり（中略）今さら那隊に從はゞ、縦戰巧ありとても、我は二の町三の町にて、一歩の地だも得がたかるべし。要こそあれ、と尋思をしつゝ、白井の城を出しより、胡意中途に掩留して、敢五十子に來會せず…」 （第九輯下帙下編上 第百六十六囘）景春と箙大刀自が、同じ長尾家として一体であるならば、稲戸津衛の軍も上杉の指揮下には入らないだろう。
● おまけ・バーチャル聖地巡礼
稲戸津衛の軍事行動について、ちょっとした余談。
扇谷定正が、里見家に対する軍事行動を起こすにあたって、各将に使者を出したのが、十一月初旬。里見家の間諜がそれを察知したのが同月中旬。で、諸将が五十子城に集結したのが十一月下旬。で、戦争が十二月初旬。
長尾景春を含めて諸将の大半は関東だから、一ヶ月未満の時間しかなくても軍を揃えて五十子城に集結することに苦はなかろう。
でも、越後の稲戸津衛はどうなの？
稲戸津衛が、越後片貝からどのルートで関東に向かったのか記述はない。だが、答は明白。
かつて犬田・犬川のコンビが信州諏訪経由で関東に向かったが、この道筋は大回りな上、他領なのでそもそも軍隊を通すのが難しい。となると、長尾領内であり近道でもある三国峠（標高 1244m）しかない。
* この「マイクロソフト・フライトシミュレーター2024」は全地球をカバーしている（但し、地形は完璧だが、建物の大半は AI が航空写真からテキト～に再現したものなので低空の風景はいまいち。東京近郊等一部のエリアに限っては、フォトグラメトリを使った建物再現でそこそこリアル）ので、地球上を舞台にした物語なら何でも仮想聖地巡礼が可能。
* 上のスクショは、峠の越後側。苗場スキー場方面を望む風景。この峠は関東側の方が険しい難所のようだ。
旧暦十一月は、新暦だと 12月ぐらい。雪の峠を越えなければいけない。しかも片貝から三国峠までの道筋は、越後でも特に雪深い魚沼郡を通る。稲戸津衛にしてみれば「こんな季節に戦争だと？」とウンザリしたに違いない。
* 冬の三国峠は、江戸時代、長岡藩士が雪崩にまきこまれて犠牲になった事故もあったという。何度も関東に出張った上杉謙信ですら、冬の峠越えは一回しかやっていないらしい。
* 今、鉄道や国道や高速道路は、谷川岳近くの清水峠下をトンネルで抜けている。その清水峠の方が三国峠より距離は短いが、標高 1448mで山は険しく、江戸時代は通行禁止だったとか。八犬伝の舞台である戦国時代は清水峠も通れたから、可能性としては清水峠ルートも考えうる。だが、雪を考えると、清水峠経由は厳しすぎる。
● 稲戸津衛の出自と出世
さらに時系列を遡る。
稻戸津衞「俺が本貫も亦伊豆にて、親は則堀越殿（足利政知）に、仕へたるものなりければ、（中略） 君家の斷絶 、政知亡させ給ひしかば、某們も亦流浪しつ、些の由縁を心當に、這地に來つゝ幸ひに、淺き文學武藝をもて、長尾殿に仕しより、漸々に登揚せられて、老婦人に隷られたり」 （第八輯上帙 第七十九囘）稲戸津衛は、なんと伊豆出身である。
● 女難？
稲戸津衛は、面倒くさい箙大刀自を相手にしなきゃいけない立場。
だが、それ以前にも「女」で苦労している。若い頃、継母の讒言を信じた父親に家から追放された。
* 結局、師匠である犬川衛二（荘介の父）が間に入って実家に帰ることが出来たわけだ。これって、継母だけでなく、実父も問題だよな。
稻戸津衞「某が、年十七八なりし比、繼母の讒により父に逐れて、親族許寓居せし事あり。その折に衞二大人の、父を諫め母を和諭て、召返させ給ひにき」 （第八輯上帙 第七十九囘）こういう「女難」が稲戸津衛の運命なのかもしれない。
● 箙大刀自とは何か？
ハトシェプストと異なり、史実の長尾景春の母親は、支配者として君臨したわけではない。
であるにもかかわらず、八犬伝では、なぜこのような女帝キャラに設定されたのか？ なんらかの意味があるのは間違いないと思うが、この文章を書いている時点（2025年 11月）では、さっぱりわからない。
ちなみに「箙」とは、武具の一種で、矢を入れて携帯する容器のことである。
女性+容器といえば、イメージするのは子宮。ならば中にあるべき矢＝息子の景春とも想像できる。八犬士が伏姫太母神に包まれているように、景春は箙大刀自に包まれているのか？ なんか、この母子関係にそんなイメージを抱けないんだけど。
それとも「竹の縁語関係図」で触れた、竹冠が重要なのか？
だとしても、上記ページの竹の縁語についても、なんらかの結論に至っていない。
……等々、思考が堂々巡りするだけで、何も解決の糸口が見えないまま。
なにか気づいたら、この続きを書く。
* ゆーかさんの八犬伝サイト「伏姫屋敷」の、「勘ぐりと細かいネタ」の項目下に、「なぜ箙大刀自は優遇されるのか」という分析ページあり。亭主はこの視点からの考察に思い至らなかった。