[ 八犬伝邪読 - 36 ]
● あだばな…
今回は、いきなり引用する。
* 引用部分を読み飛ばしても、内容がわかるようには書いている。
丶大禪師「犬塚は濱路といふ、結髪の少女あり。又犬村は、雛衣といふ賢妻あり。則是、陽は獨立ざるの義なり。尒るに濱路・雛衣、又犬江が母沼藺は、皆是良善心烈の婦人なるに、非命に那身を殺せしは、果報虗きに似たれども、こも亦故あり。譬ば草木の花開て、將に実を結まくする時に、必先虗花あり。這虗花ありて、後に実花あり。恁れば件の三婦人は、犬塚・犬村等が爲に虗花なれども、其心烈貞實なる、名を千載の後に貽さば、猶千葉茶蘼花の實なくして、花を賞玩せらるゝ如し。旣に這虗花散て、濱路姫、鄙木姫の実花あり。こゝに至りて實を結びて、子孫繁昌すべき者なり」 (第九輯下帙下編之下 第百八十勝囘中編)丶大は言う。
● 死してなお誠心
徒花の浜路と、実花の浜路姫。
本来、接点などない両者は、信乃の甲斐物語で接触する。大塚の浜路の霊が、後に里見の姫だと判明する甲斐の浜路に乗り移って、信乃にメッセージを伝えるのだ。
濱路「妾は四稔さきつ夏、彼左母二郎が非道の刃に、命果敢なく圓塚なる、火定の穴に葬られて、骨も留めずなりしかど、魂魄はなほ旦暮に、おん身のほとりに夤緣て、いはまく欲き事しもあるを、陰鬼陽人方異なれば、本意を得遂ずいたづらに、光陰を過し侍りしに、こゝなるあるじの女兒の名の、妾と同じきのみならで、おん身と月下に結れたる、宿因あれば形體を借りて、事情を告侍り。曩におん身は妾が爲に、生涯妻を娶らじ、と宣はしたる御心操の、有がたきまで忝く、歡しうは侍れども、その言の葉の末遂て、わらはを忘れ給はずは、縡の便宜にうち任して、只この妙を妾ぞ、と思ふて緣しを結ばし給へ」 (第七輯 第六十八囘)大塚の浜路は死後、霊魂となって信乃の周囲にまとわりつくものの、直接の接触はできなかった。が、同じ名前にして信乃と宿因のある甲斐の浜路の身体を借りて、ようやく信乃に言いたいことを伝えられた。
犬塚信乃「某諸賢の資によりて、名を揚 家を興すとも、又正室を娶るべからず。子孫の爲に已ことなくば、妾のみにて事足りてん」 (第五輯 第四十四囘)要するに四犬士が語り合うこの場面で、脇に浜路の霊がいて聞いていた、ということだ。
犬塚信乃「幽冥の事 鬼神のうへは、凡智に測り易からねども、男女夜深て相譚はゞ、是 瓜田の屨、李下の冠、人の疑ひをいかゞはせん。その身の宿意を告んとて、人の女兒に濡衣を、被するは仁義の所行にあらず。われも亦この故に、あるじ夫婦の恨を惹かば、いひとくによしなかるべし。とくとく立去り給はずや」 (第七輯 第六十八囘)男女が夜にいっしょにいて疑われても困るから、とっとと去れ、と。
犬塚信乃「出世の首途、妨せばわが妻にあらず、過世の讎か」 (第三輯 第二十五囘)ひどい言いようである。
● 浜路姫側の視点
一方、浜路姫こと甲斐の浜路は…
甲斐の濱路「甲夜よりわらははうち臥して、熟睡したりし夢ごころに、いと美しき少女子の、枕に立て呼覺し、今宵おん身を勞して、犬塚ぬしに如此如此と、いはまく欲き事侍り。こなたへ來ませ、と先に立て、伴るゝと思ひしのみ。その後の事はしらず侍り。そは何事をいへるにや。はじめて覺たる心地して、面目もなく侍り」 (第七輯 第六十八囘)夜に信乃のもとに娘が夜這い?したとして、甲斐の四六城家は大騒ぎになる。
犬塚信乃「某舊里に在りし時、結髪の未通女あり。その名を濱路と喚做したり。尒るに渠は故ありて、惡棍の爲に勾引されしを、從はずして節に死したり。さればその名も年紀も、似たる息女の肢體を借りて、今宵竊に某に、ものいひしものは亡魂の、所爲としられて寔に奇なり」 (第七輯 第六十八囘)これによって、甲斐の浜路も、信乃にはかつて同じ名前の女がいたことを知ったわけだ。
● 改めて、徒花
話を大塚の浜路に戻す。
彼女の亡霊は、信乃と甲斐の浜路の間に「宿因」があると言った。
そんなことは生きているうちに分かるはずがないので、死後、霊界でそれを知ったことになる。
この場合の「宿因」は、未来に信乃と浜路姫が結ばれる運命をいう。であるならば、運命は事前に定まっている。となると、大塚の浜路の悲しい運命も事前に定まっていたことになる。丶大の言う「先に徒花が散る」というのも、先に散らねばならない運命を負ったということだ。
死後、それを知った浜路の亡霊はどう思ったのだろう?
生まれて、後に大きく咲く他の女の実花のために、自らは実を結ばずに散る。残るのは美名のみ。他は何の見返りもない。その美名すら、おそらくは犬塚家に代々伝わることはあるまい。子孫にしてみたら、大塚の浜路など赤の他人。二代目以降には初代のような思い入れなどない。
浜路の不幸は、実母の黒白の悪行の因果応報だ。
これは、親兵衛の栄光が両親の善行の結果であることの真逆。どちらも、いわゆる「親の因果が子に報い」という話だ。
なんとも残酷な話である。浜路本人は何の悪事もしていないのに、不幸の報いだけは受ける。納得できないし大損な人生だ。今風に言えば、これぞ親ガチャの大失敗。
……という話もなんか変だ。
同様に徒花として散った雛衣はどうだ? 両親ともに善人。親の因果というなら、雛衣は幸福にならねばならない。だが、短命に散った。雛衣の不幸はどこから来た運命なのだ?
散らねばならぬ善人って何?
因果応報、勧善懲悪──。
八犬伝世界の掟とされるものは、徒花として散った者を見る限り、破綻している。いや、そもそも成立しえないだろう。悪人が必ず倒されるとしても、悪人が存在した以上、誰かは犠牲になっている。被害者がいないのであれば悪人もいないことになる。その被害者は何か報われるのか? 否、報われずに散る。
南総里見八犬伝は、勧善懲悪の物語を前面に大きく打ち出しているが、善人が必ずしも報われるとは限らないからには、その実、大いなる「悲劇」と言える。
● 徒花は強制退場
浜路の亡霊は、その後一切登場しない。
実花の浜路姫が登場した以上、徒花は退場せざるをえない。言わば、強制退場である。
墓はどうなったのか?
それは兄である道節が招魂して安房に建てられた。この件に関して信乃がどうしたのか記述はない。もしかしたら信乃は関わっていないのかも。
「菅菰・大塚の郷は、犬塚信濃の故郷にて、二親の墓は香華院に在り。又犬川莊介の母の行婦塚あり。父犬川衞二の墓は、伊豆の堀越に在り。又大塚には、犬飼現八兵衞が実父、糠介の墓もあれば、倶に立よりて墓詣をすべく(中略)這三犬士は、次の年に至りて、義成主に願ひ稟しつ、倶に大塚の郷にゆきて、是等の本意を果せしなり。又道節は、父犬山道策と、実母と女弟濱路の魂を招きて、其墓を安房の延命寺に建立す。(中略)犬村大學は、初犬飼現八に伴れて、舊里赤嵒を出し時、実父母、羪父母、及故妻雛衣の香華料を、多く香華院へ寄附したれば、其墓頽轉すべくもあらず」 (第九輯第下帙下編之下第百八十囘上)ちなみに、同じ徒花たる雛衣は……大角が赤岩から旅立つ前に、菩提所に香華料を十分に払っているから、そのまま放置らしい。信乃の昔の浜路への想いが薄いのに似て、大角も昔の妻のことは遠い過去になってしまったようだ。
● 盧橘の娘たち
里見義成の八人の娘は、八犬士の妻となる。
その栄華が実花だとして、なぜ浜路姫と鄙木姫の二人だけ、花開くために徒花というブースターを必要としたのだろう?
この二人だけに共通することは、母親が義成の妾、盧橘だということ。
盧橘は、娘たちに単体で実花になれるだけのパワー?を与えられなかった、ということになる。だが、彼女は名のある武将の娘であって、他の妾とくらべて低い地位というわけではない。ただ早死にしており、母親として娘たちにパワー的な何かを与える時間がなかったという面はある。
八犬士のうち二人だけ女装とか、2/8 という例は複数ある。
であるならば、八姫のうち二姫だけ、という話にも何らかの意味があるやもしれない。
* その辺の話は「八人中、二人だけ◯◯」参照。
● 徒花の不条理
八犬伝の研究者として知られる小谷野敦氏によれば、犬塚信乃と浜路の悲劇は、シェークスピアの「ハムレット」における、主人公ハムレットとオフィーリアの関係と比較しうるという。
「寧ろ女の積極的なのに対して男が元気がなく優柔不断なのは、近代文学の中にいよいよ栄えてゆくパターンであって『八犬伝』もその系列の中で把えるべきだと思われる。しかし、この作品が近代の先頭に立つものだという点から、私は、同じように、近代の始まりにあたって、冷たくオフィーリアを突き放すハムレットを採用することにしよう」 (小谷野敦著「八犬伝綺想」)亭主は「ハムレット」は、新潮文庫版(福田恆存訳/昭和45年・第七刷)で読んだのと、ローレース・オリヴィエ監督主演の映画(1948年)を見ただけだが、どちらにしても、オフィーリアからは何も読み取れなかった。亭主には文学的視点で深く分析する能力がないという証明でもある。
● 妄想:徒花が死なずに生きていたら
もし浜路や雛衣が死ななかったら?
それでも八犬士は里見家の八姫を正妻に迎えるしかなかったはず。
となると、信乃の場合は「正妻が浜路姫で、妾が大塚の浜路」になるだろう。
正妻と妾が同じ名前ということになり、閨で呼び間違えても、何の問題も発生しない。
一方で浜路の側は、本名を呼ばれても「もしかしてこの男は向こうの浜路のことを想っているのでは?」という疑念に苛まされるかも。
雛衣の場合はすでに妻だから、少しばかり厄介なことになる。
おそらくは源氏物語の光の君と同じパターンになる。つまり、正妻格の紫の上がありながら、帝に押し付けられて断れずに女三宮を正妻にしたのと同じ。雛衣を正妻格のような曖昧な何かとして存在させたまま、鄙木姫を妻とするしかない。これで、源氏物語と同じく鄙木姫が別の男の子供を孕んだりすると、修羅場で面白い?んだけど、八犬伝世界だとそうはなるまい。残念。
● 余談:美女は辛いよ
大塚の浜路は、陣代・簸上宮六に一目ぼれされた。
浜路姫は、その姿を映像?で見ただけの蟇田素藤に求婚された。
容姿を見ただけで好きになる。
それは外見が美しい場合に限るだろう。つまり、どちらの浜路もかなりの美女ということだ。
で、美女は、その美しい外見ゆえに男を惹きつける。だが、クズ野郎すら引き寄せてしまうのが大問題。同じ美女でも、玉梓のように本人もクズならば、相手がクズ野郎でも相性がいいかもしれない。だが、浜路はそうではない。それが彼女をさらに不幸にしてしまった。美女に生まれるのも辛いわね。
* 美男子も色々苦労するから良く分かるよ(大嘘)
● おまけ・バーチャル聖地巡礼
信乃の甲斐物語の舞台。
* この「マイクロソフト・フライトシミュレーター2024」は全地球をカバーしている(但し、地形は完璧だが、建物の大半は AI が航空写真からテキト~に再現したものなので低空の風景はいまいち。東京近郊等一部のエリアに限っては、フォトグラメトリを使った建物再現でそこそこリアル)ので、地球上を舞台にした物語なら何でも仮想聖地巡礼が可能。
写真は南東方向を見た甲府盆地。なお、指月院より西=信州寄りにある四六城家の推定位置は上のスクショには写っていない。甲府も含めて写真外右側である。
* ゆーかさんの「伏姫屋敷」で知ったことだが、指月院は実在の寺なんだね。浄土宗の「石和山 指月院 法泉寺」という。なお、至近の甲府に臨済宗の法泉寺があって紛らわしい。
* 亭主は思春期に母と長野県に住んでいたが、父の住む東京と何度も報復したので、その途中、甲府盆地は急行アルプスで何度も通過した。また、大学進学で東京に出てからは、バイクで母の家に帰省するために甲州街道を何度も通った。その時はまだ中央道が全通していなかったので、全部下道である。甲州は親戚もいない無縁の地でありながら、何度も通っているので身近に感じる。
四方を山に囲まれている盆地。
生活の視点なら、内陸性気候で夏超暑くて冬超寒い。
物語の視点だと、山に囲まれていて一種の結界と言えるかもしれない。それは、海に囲まれた結界ともいえる安房と対になるようにも思える。
* 安房も甲斐も、名君が統治しているし、後世に滅んで徳川の土地になっているのも共通。